水曜日の夜には

水曜日の夜は家庭教師が来る。
 先生は僕よりも大体10歳くらい年上で、うねった長めの黒髪と、そげた頬に残っているヒゲがなんとなく怠い感じの青年である。黒目がちな目は眠たげ、大きくて厚い唇は曖昧に結ばれている。時々その唇を妙に赤黒い舌でぬるりと舐める癖がある。
 最初、その仕草を見た母はちょっとぞっとしたような顔をしていたけれど、今はもう慣れたらしく目に留めることもない。
「……ねえ、その癖治せば?って言ったよね」
 課題を解きながら、子供部屋の窓に映る先生の顔を見るともなしに僕は言った。
「お行儀悪いし怪しまれる。普通の人間はやらないもの」
「そうかな。キミだってたまにしてるじゃないか」
 この部屋の外では絶対に出さない、金属的に歪んだ声で先生は言った。耳元に湿った温かい吐息が吹きかかる。
「そんなことない」
「そうかな」
「例えば?」
 苛立った僕が吐息を振り払おうと声の方を向くと、人のそれとは違う温かさとぬめりを伴った手と指が肩を、顎を固定し、重ねる、というよりは覆うように厚い唇が唇に絡みついた。
 やけにねばつく舌が潜り込んできて口腔を弄る。その舌から微かに苦味のある、甘ったるい分泌物がにじみ出て口腔に満ち、溢れそうになる。
 と、髪を無数の「指」がつかみ、半ば強引に絡んでいた唇を引き剥がした。思わず、溢れ出した液体を舌で舐め取ると、鼻先で先生が意地悪く笑った。
「お行儀悪いね?」
 深海の魚のような大きく真っ黒な目は濡れて光っていて、海溝のような顔の端から端へ広がった唇の奥には微かに光る歯、いや、牙が見える。
 その牙のざらつきを思い出してふいに肌が粟立つ。
「いまのは……せんせいが……」
 うわずった声で呟く。頭の中も口の中もなんだか痺れて、うまく言葉がでてこない。なんとか思考をまとめようとしていると、机の上をぬるぬると這い回っていた先生の「腕」と、不定形に広がろうとしている先生の「髪」が、机に投げ出していた左腕の包帯を外しにかかった。
「あ、だめ、だめ、やめて、とらないで」
 怖くなってもがいたけれど、もう人の形でなくなった「先生」が全身に絡みついていて動けない。
 デスクライトの白い光に、乾いた赤黒い線が幾筋も刻まれた左腕が照らしだされる。
――きみは死にたくなったんだ、どういうわけで?
「なんでもいいだろ、あんたに関係ない」
 傷口を湿った指がなぞり、腕を這い上がる。耳孔からさらに奥へ差し込まれ、頭の中を探られているのがわかる。どこまでわかるのか、よくわからないけれど。ただ、あふれそうだったなみだや、おなかのそこによどんでいた にくしみや、くるしさが、先生のあたたかな て と ゆび に ほどかれ
――そうか、いじめなんか気にしてないって言ってたわりに色々気にしてたんだ
 恥ずかしさと惨めさに耐えかねて僕はもがいた。目の縁に溜まっていた涙が、頬に染み込みながら流れていく。
「そうだよ……ねえ、このまま、ころして」
――それは困るな。きみが死んだら飢えてしまう
 空白になりつつある頭の中で先生の虚ろな声が反響し、僕の思考を覆い尽くそうとする。身動ぎし、全身で感じている熱に意識を向けて、なんとか声を押しのける。
「じゃあ、ほ、ほかのひと、さがしてよ、僕、いがいの……あ……っ」
 ふいにうなじに牙をたてられ僕はうめいた。こわばった脇腹へ手が滑ってきて、肋骨の凹凸を一つずつ確かめ、鼓動を味わうように心臓の上で広げられる。
――いやだね。きみのようなニンゲンはそんなにいないんだ
 広がった手がそのままずぶずぶと中に入ってくる。胸全体がしびれるような感じがしてもがくけれど、そんなものは抵抗にもならない。頭のなかとおなかのなかを すみずみまで まさぐられ

(寄生蜂について調べてみたことがある。芋虫に産み付けられた卵は芋虫の体内で孵化し、その肉を喰いながら成長する。成長しきると皮膚を食い破って表へ出て、皮だけになった芋虫の周りで繭を作る。そんな虫が本当にいるのかな、と僕は思ったが、実際、)

 ああ、
くるしい

(菜の花畑で捕まえてきた芋虫、手のひらで丸まり、小さなかわいい口でキャベツを食べてたかわいい芋虫。それが、ある日、学校から帰って飼育ケースをのぞいたらそこに)

 くるしくて

――大丈夫、皮だけ残して食べ尽くしたりしない。そんなことしたら二度とこの芋虫みたいにやわらかな肉に包まれて、剥きたての林檎みたいに芳しい思考を、感情を、啜れなくなるじゃないか。そんなばかなこと

 きもちがいい

 母がありがとうございます、と言っているのが遠く聞こえる。それに先生がぼそぼそと返答し、僕に笑いかける。来たときと同じ眠たげな目をしている。僕はぼんやりと何か返事をして頭を下げる。まだ全身に弄られた感覚が残っていて、普通を装うのが苦痛だ。
 部屋に戻ってベッドに崩れた僕の左腕には傷がない。先生が舐め取ってしまったのだ。
――きみから出てくるものは何でもおいしい、愉悦の感情も、苦痛の経験も、全部
 耳の奥に金属質な声がこびりついている。

翌日学校に行くと、昨日まで僕をくだらない理屈で迫害していた子たちが居なかった。他のクラスメートがいうには昨夜、黒いどろどろの怪物が現れて、その子達を捕らえて引き裂いてしまったらしい。
 そんな馬鹿な。と僕は鼻で笑った。教師の言い訳みたいな説明を聞きながら、僕は無意識のうち左腕を親指でなぞっていた。